
五島列島
潜伏キリシタン探訪 | 前島
連載「五島列島 潜伏キリシタン探訪」の
第四回目は「前島」です。
『記憶の中のオラショと、隠れキリシタンの島』
オラショを聞かせてくれた日
岸を離れるにつれて奈留島の町並みがゆっくり遠ざかり、海の色だけが広がっていきました。船べりには白い泡が流れ、その先に、ぽつりと島影が浮かんでいます。
前島です。
奈留港の正面に位置する人口31人の小さな島は、外海からの波を和らげる天然の防波堤として、長く奈留島を守ってきました。干潮時にだけ現れる砂の道「トンボロ」が有名で、観光客も訪れます。
「久しぶりに、もどってきたたいねえ」
そうつぶやいたのは、前島出身の這越 末光さんです。
前島行が決まったのは、その1か月ほど前のこと。這越さんは奈留島のリサーチを進めるなかで出会った、隠れキリシタンの末裔です。
現在は福江島で暮らし、左官職人として働くかたわら、「五島八幡神社神楽保存会」では獅子の舞手も務めています。
福江島のカフェ「Slow Cafe たゆたう。」で話を聞いていたときのことです。
這越さんは子どもの頃に家族で神道へ改宗したため、隠れキリシタンの信仰については「ほとんど覚えていない」と話していました。
ところが、這越さんはオラショを読誦してくれたのです。歌とも、お経とも違う、不思議な節回しでした。


「うちの親父が帳方やったけど、教えてもらったわけでもないんです。正確かどうかもわからんし、意味もわからん。でも不思議と歌えるんです」
帳方とは、隠れキリシタンの儀式を取り仕切る役割です。オラショは本来、子どもに積極的に教えるものではありません。儀式も帳方や水方など限られた人によって執り行われ、島民であっても中を見ることはできなかったといいます。
それなのに、這越さんは読誦できる。
誰かに教わったわけでも、本で読んだわけでもなく、なぜ覚えているのか、自分でもわからないのだそうです。その日同席してくれたお兄さんは、オラショは覚えていませんでしたが、こんなことを言いました。
「かくれキリシタンという意識はないけど、心のどこかにいつもある感じはする」
2人は「小さな島で、みんな本当の兄弟みたいに仲が良かった。あんなに人情味がある島はない」と言います。この話を聞き、前島がどんな島か知りたくなり、這越さんと一緒に前島へ向かうことになりました。


故郷に尽くした偉大な親父




前島に到着してまず驚いたのは、海の透明度でした。港の足元では、小魚が泳いでいます。 港の近くにいたおばあさんが乳母車を引きながら笑顔で近づいてきて、「どしたんなあ」と、そのまま立ち話が始まります。
こういう場面に出くわすと、小さい島の「距離感」というのは、こちらが思っているよりずっと近いのだなと思います。港から目と鼻の先には山があり、海岸とのわずかな隙間を縫うように家々が並んでいました。
這越さんは、「この辺りは砂浜やった」「あの山のふもとにも畑を開墾していて、よく遊びよった。土を掘ったら、水晶が出たこともあった」と、次々と記憶をたぐりよせていきます。
今は見えない風景。しかし確かに存在したものが、言葉によって少しずつ立ち上がっていきます。
前島では、かつてほとんどの人が漁業に従事していました。イワシやイカ、キビナゴなどがよく獲れ、漁や加工は島民みんなで手伝っていたそうです。櫓がたくさん建てられ、こどもたちも、女性たちも、みんなが海に感謝しながら、魚を干したり、切ったりしました。
島の暮らしは、旧暦に沿った生活でした。満月になると海面が明るくなり、光を警戒したイワシなどの魚が獲れにくくなります。月が欠けはじめると、漁へ出る。そんなふうに、一か月の暮らしが月の満ち欠けに沿って流れていて、大量のイワシが獲れたときには、島民たちでささやかなお祝いもしたそうです。
潜伏の時代も、そのような暮らしだったのだと思います。団結力は小さな島のよりどころでしたが、帳方が共同体の中心にもなっていたのではないでしょうか。隠れキリシタンには「バスチャン暦」と呼ばれる日繰りがあり、祭日や儀式の日だけでなく、共同体の時間感覚そのものを支えていた。月の満ち欠けや農漁の営みと重なり合いながら、人々は一年を過ごしていたのかもしれない。 暦は今よりもっと重要なものだった。這越さんのお父さんは帳方でもあり、網元のような存在でもあったことからも、島民にとって重要な人だったのがわかります。
それを物語る遺構のひとつが、港からほど近い海辺に、石組みの台です。かつてここから奈留島行きの渡船が出ていて、学校へ通う子どもたちが待つ場所だったそうです。
昔は伝馬船で櫓をこいで海を渡っていて、時化になると、ひどいときは数日間も前島から出られないこともあったそうです。しかしある時から、エンジンが付いた小型の船に変わりました。這越さんのお父さんが、島のために私財で購入し、子どもたちの送り迎えと、郵便物の郵送を無償でしていたといいます。
這越さんの家は、島外から来た行商人や来客が泊まる場所にもなっていました。宗教活動とは関係なく、人が集まり、酒を飲み、地域の寄り合いも開かれていたそうです。生活と信仰が明確に別れておらず、網の目のように重なりながら、共同体を支え続けたのでしょう。
そんなお父さんをたたえる石碑が、海沿いにある巨岩の上に建てられています。石は這越さんが海岸で探し、娘さんが文字を書き、職人が刻んだものだそうです。
「親父はすごい人やった。人のために生きよった。追いつきたいけど無理やなあ」
記憶の中に残る信仰
福江島での食事会のとき、お兄さんの彰司さんがぽつりと話していた言葉がありました。
「山のてっぺんに、大理石があってなあ。子どもの頃見たんやけど、あれも潜伏キリシタンンが祈ったり儀式をしていた何かやったんかもしれんな」
その言葉が気になり、なにか他にも信仰の痕跡がないか、探して島を歩きました。
けれど、それらしいものは見つかりません。信仰の痕跡は、もう島民のわずかな記憶の中にしかないのです。
海岸沿いの家の木の剪定をしていた男性にも話を聞きました。
「抱き親の記憶はあるなあ。私のキリスト名はドミンゴ。抱き親によって、みんな同じ名前だったように思います」
「そういえば、あったたいねえ」と、這越さんも言います。
隠れキリシタンの信仰共同体では、子どもが生まれると、実の親とは別に「抱き親」が決まります。両親が亡くなったときなどに支える役割を果たす地域もあったようです。つまり互助制度のようなものでもありました。
「どんな制度だったかは覚えとらんけど、小さいころ、風呂敷で包んだ大きな餅を背負って抱き親に会いに行った記憶はあるなあ。帰りに、抱き親から餅をもらって、それを持って帰った」と這越さんは言います。
男性も続きます。
「島内に信仰共同体が2つあって、御大夜(クリスマス)の儀式の日にちが、一日ずれていた記憶があります。中は見せてくれなかったけど、洗礼式とかもやってたんやろうなあ」
帳方の役割は、何年かに一度交代していたとのこと。帳方さんの名前を聞くと、5,6人の苗字を教えてくれました。帳方の役目はある程度固定されているイメージでした。潜伏の時代からそうだったのか、途中で変化したのかはわかりませんが、まるで町内会長かのように順番に変わっていくことに、驚きました。
「うちの親父も、役目が廻ってきたときに、納屋かどこかでオラショの練習していたんかもしれんなあ。それを聞いて覚えているんかも」
潜伏の時代でも、全員が隠れキリシタンであり、離島だったことから、比較的秘匿意識が低かったのかもしれません。秘匿性を維持するなら、帳方の役割は固定するのではないかと思うのです。だから這越さんも、どこかでオラショを耳にする機会があったのかもしれません。



波打ち際のイノシシとトンボロ






干潮の時間になるのを待ってトンボロに向かいました。
トンボロとは陸繋砂州のことです。
干潮時に潮が引くことで、前島と隣島の末津島へと繋がる砂州(さす)が現れます。普段は海に隔てられている末津島へ歩いて渡れるようになります。
「トンボロは朝方になると、きらきらしとった。貝が光っとったんかなあ。星空もきれいやった」と這越さんのお兄さんが言っていたのを思い出します。
その途中に出会った男性に話を聞くと「最近、島の3か所で同時にイノシシの死体があがってなあ。同じ日やったから、多分どこかの島の人が捨てたんかなあ。腐ってすごいにおいがしていたけど、どうしようもなくて、そのままにするしかなかった。前島では最近はイノシシがたくさんでるんです。私の芋畑も全部やられた」と言いました。
自分たちで捕獲したイノシシは、海に捨てると誰かに迷惑がかかる。そんなことはせず、埋葬までをおこなうこともあるそうです。
「みんな高齢だけど、やるしかないからなあ。本当は誰かがきてやってほしい」と男性は言いました。
前島の周囲をぐるりと歩き、やっと見えてきたトンボロ。海の上に時間限定の道ができていました。ソフトボールのような大きさの石がごろごろころがっています。両方から静かに波が押し寄せ、奥にある末津島のこんもりした亀の甲羅のような形も相まって、おとぎばなしのよう。月の満ち欠けに沿って起こる神秘に、胸を打たれます。
美しい道に感動し歩いていると、ゴミの多さに驚きました。ペットボトル、時計、お酒の瓶、便器の蓋や、家庭ごみから産業廃棄物までが、トンボロ全体に散在しています。
「昔は、こんなに汚くなかったのにな」と這越さんはつぶやきました。
このゴミはどこから来ているのでしょうか。いろいろな国の言葉で書かれた文字が見えます。以前は島民が掃除をしていたそうですが、高齢化が進み、今ではそれも難しくなったようです。
とはいえ、トンボロから見える海は、やはりきらきらと輝いていて美しいものでした。転がっている石も、一つひとつに模様があったり、真ん中がえぐれていたりと表情豊かで、見比べるだけでも楽しい。途中で貝を拾ったり、浅瀬の岩の間にたまった海水のなかで遊ぶカニを眺めたりしながら歩いているうちに、末津島へ到着しました。
入口の洞窟の岩肌は自然の力に満ちていて、地球の営みの力強さを感じさせます。長い年月をかけて波が削ったのでしょう。
こうした海の荒々しさと雄大さにも向き合いながら、前島の人々は暮らしてきました。その人たちにとって、キリストの神とはどのような存在だったのでしょうか。
ブリコラージュ的な信仰
港への帰り道に集落を歩くと、漁網で囲まれた休憩所や、使われなくなった船を利用した物置など、工夫がこらされたものがたくさんあることに気づきました。既存の用途にとらわれず、その場にあるものへ新しい役割を与えていく。その発想の豊かさに感心するうちに、凝り固まった頭がほどけていくような感覚になりました。
同行した人が「『野生の思考』を思い出しますね」と言いました。
『野生の思考』は、文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースの著作です。そのなかで提唱された「ブリコラージュ」という概念は、その場にあるものや限られた資源を活用し、組み合わせながら新しいものを生み出す営みを指します。高度な編集ともいえるこの作業が可能なのは、身の回りの物や存在を固定的なカテゴリーに閉じ込めない感覚があるからかもしれません。
隠れキリシタンのコスモロジーもまた、信仰のブリコラージュのように思います。
お兄さんの彰司さんは、「隠れを信仰していた頃も、家には十センチほどの黄色い空海像が祀られていた。でも弘法大師も聖人だから、違和感はなかった」と話してくれました。
オラショと空海像、そして先祖を敬う心。それらは別々のものとして整理されていたのではなく、暮らしの中ではどれも必要な信仰で、それらが矛盾なく重なり合っていたのでしょう。
這越さんは、五島神楽で獅子頭をかぶる前には、空を見上げて「力をください」と祈るそうです。そして父親がそうしていたように、人のために仕事をし、鑑賞者が幸せになるよう願いながら丁寧に舞うのだといいます。
宗教による対立や分断が世界各地で繰り返される今、隠れキリシタンたちが育んできた、この併存の感覚は示唆に富んでいます。異なるものを排除するのではなく、関係づけながら生かしていく。現在を生きる末裔たちのなかには、まだ十分に言語化されていない形で、併存の感覚が残されているのかもしれません。
オラショを聞かせてくれた日から始まったこの旅は、
そんなことに思いをはせるものでした。

筆者 : 岡内 大三
ライター / 編集者/ 映像制作
移民や少数民族など、社会的マイノリティーの取材を重ねている。単著に「香川にモスクができるまで」(晶文社)。HEAPSMAG、 KOTOBA(集英社)などの媒体にルポルタージュやエッセイを寄稿。近年は、ドキュメンタリーと身体表現が混然一体となった映像作品を制作。「知覚民話 / Inorino」(IDFF上映作品)「演奏で振り返る豊島不法投棄産廃事件」(瀬戸国際芸術祭2019DOMMUNE SETOUCHI)など。

撮影 : 宮脇 慎太郎
1981年香川県高松市生まれ。大阪芸術大学写真学科卒業後、日本出版、六本木スタジオなどを経て独立。大学在学時より国内外への旅を繰り返したのち、2009年から高松を拠点に本格的な写真活動開始。辺境・辺縁で生きる人々や、マイノリティーが浮き彫りにする命の流れと聖性を追求。2022年にはリアス式海岸が続く南予沿岸地域を6年間撮影した『UWAKAI』を刊行。同年に初のノンフィクションとしてインドのゴアと屋久島、二つのヒッピーの聖地を旅した『流れゆくもの~屋久島・ゴア~』出版。2002年大阪芸大卒業制作展にてホースマン賞受賞。瀬戸内国際芸術祭公式カメラマン。2020年香川県文化芸術新人賞受賞。
公開日:2026.01.25


